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おりひめ14-2 [山荘関連]

「ピッコロ9」より連綿と続いてきたH先生のヒマラヤ遠征記もいよいよ最終章です。
最後を飾り全文掲載します。(長いです)

遠 征 の 終 焉
◎孔雀の扇
インド・ナショナルバンクでトラベラー・チェックをドルに現金化し、少し金持ちの気分になる。三人でインド国立商品陳列館へ行ってみることにする。何か適当ないい土産物が買えるかもしれない。コンノット・プレスを右廻りに歩き、ホテルの正反対の№八ラジアル・ロードへ行った。 そこはJALのある通りで四車線もある立派な道路だ。歩道は人でごった返している。(ナッパ服もあればサリーもあり、最も標準的なのは白Y シャツにステテコ姿。サンダル穿きか裸足が圧倒的に多い。

そんな中の一人が孔雀の羽根で作った扇を沢山持って売り歩いていた。インド人には勿論売れない。我々をみつけるといいカモをみつけたとばかり、鼻髭をピクピク動かし愛想よい笑いを浮かべて向って来た。

男の持っている扇の大きさは、直径三十Cm位の小さいのと、一方、直径一m もある大きいのと二種類ある。流石デリーの大道商人だけあって、客慣れしていた。大きい方に我々の眼が集っているのをみてとると、「ビッグ・イズ・フィフテーン・ルピース・べリー・ロー・ペイ」沢山の扇を振り振り寄って来た。「小さいのはもうカトマンズで買った」と言うと、大きいのがいいと勧める。こっちも相談して半値にまけたら買おうということにする。冷やかし半分に二本でいくらか?と聞くと、ちょっと考えて、あたかも我々の腹を見透かしたかの如く、「ツー・フィフテーン・OK ?」さすが感の良さ!と驚く。そこで、すかさずもう一声。「ワン・セブン・ルピース」彼は一瞬戸惑って、しばらく考えてから、どう納得したのか、OK!OK!と二つ返事だ。三本も一度に売れるのだから半額以下になっても彼は儲けたつもりなのかもしれない。彼の計算はどうだったのだろう。あるいは案外、仕入が五ルピーぐらいで結構儲けられたのかもしれない。

でも孔雀の尾羽根一本百円もするのを四十本以上使ってある豪華な品物だから、到底日本では三百五十円で買える代物ではないし、有る筈もない。

 扇を手にし、国営の鉄筋でできた土産物陳列場に入る。さすが国営だけあって、各州、各地方の物産が並んでいる。青銅製品・象牙製品・宝石類・毛皮類が、ぎっしり並べられ、眼を見張るものばかりである。そこで真鍛製の首の長い、エキゾチックな模様の彫り込みと彩色の施してある水差しや、コップそれに象牙製のペーパー、ナイフなどを購入する。

◎デリーの「銀座」で食事をする。
 少々 、暑さバテしたので宿へ帰って一休みする。夕食はちょっと豪勢にしようと衆議一決、街のレストランへ繰り出す。

通りへ出るとさすがべテランのY氏だ、目ざとくすぐ近くに『銀座』いう店をみつけた。ちゃんと日本語の漢字で行燈風の街灯に書いてあった。中に入ると、眩いばかりのシャンデリアが輝き、予約客四十人位の席の準備中だった。我々は端っこの方に席をとる。日本なら入るとすぐさしずめ冷水か、お茶のサービスがあるのに、サービスだと思って頼んだグリーン・テーがなんと一杯二百円もした。そのあと、米の飯が恋しく、チャーハンとスープを註文する。一人前三百八十円なのだから、グリーン・テーがいかに高かったかがわかる。もっともお茶は摺り鉢型の大きな白磁に紺色の紋様のある綺麗な茶碗に入れてあり、いい香りがした。

久し振りに炊いた米の飯にありつくことができたし、お茶も飲めた。もっとも外米特有のあの匂いだけは、どうしても馴染めないので、赤い、凄く辛い「チリ」をたっぶりまぶして匂いを消して食べないととても喉が通らない。

帰り路、注意しながら歩いてくると『みかど』と日本語のひら仮名で書いた瀟洒なレストランがあった。ここは明日の夜の楽しみにしようということで、ホテルに帰る。この第四ラジァル・ロードが一帯はもしかしたら日本街なのかもしれない。明日はいよいよ待望の夕ジ・マハール行きだ。早朝の出発が気になり明日の旅を夢に描きながら、早めに眠りにつく。

◎タジ・マハール
六時、眼醒める。共同洗面所へ行って顔を洗い、用を済す。Y嬢も勿論張り切っている。亜熱帯の朝は霧もなく爽やかだ、下の広場へ出ろともう車のエンジンをかけて、運ちゃんが待っていた。早い時間なので、互いに待つ人と待たれる人は、外人でも意志が通ずる。 「ゴー・トウ・タジ・マハール?OK ?」「イエス」「アイ・セイ。ウェイト・ユー。ジャスト・モーメント」二言、三言やりとりするうちにY氏が駆けつけ、六時三十分、ハイヤーはコンノット・ブレスを出発する。第八ラジアル・ロードからスーザン・ロードへ出てスピードを上げながらインド門へ向う。『 ゲート・オブ・インデア』 は、第一次大戦の戦没インド兵一万三千五百十六人の名を刻んだ、高さ四十Mのパリの凱施門によく似た形をした堂々たるものだ。 ここでしばらく車から降り早朝の冷気で眠気を醒す。早すぎてか広場の鳩も動きが鈍い。ひとしきり記念撮影などをし、所期の目的に向かって出発する。

 デリー郊外近くなり、女学生の登校姿が目にとびこんできた。街路樹の下を皮鞄を持った生徒達が嬉々と行く姿は、どこの国も同じだ。 それにしてもこんなに早く、夏時間制なのかな?細身のスラックスに紺の薄い布を首に巻いて、さっそうと潤歩する姿は、朝の爽やかさにふさわしく、フレッシュである。

やがて街路樹もなくなり田舎へ入る。朝の市場へ急ぐ牛車に行き会う。荷台にはココヤシの大きな実が満載され、引き牛は一頭のもあれば二連のものもある。みんな水牛が引張っている。一つ二つやり過したが延々と続いている。朝のラッシュだ。ふり返えると、ココヤシの実の上に白いワイシャッ姿の青年が、どの車にも一人か二人乗っている。きっとデリーの市場でせり売りが開かれるのだろう。

 亜大陸の舗装路は南へとどこまでも続く、途中の部落へくると真鍮の水瓶を頭に載せ、片手で支えた主婦達が、四・五人道路端を歩いている。遠く先の力で道を横切り河辺へ水汲みに、降りて行く女性もいる。朝食の仕度の水を取りに行くのか、賑やかに三々五々。連れ立って楽しそうに語り合いながら行く、一日の生活の始まりなのだ。一昔前の日本の井戸端会議が始まるのだろう。青空に浮かぶ白雲が水面に反射して美しい。運ちゃんの年令を聞くと、二十五才だという。さすが隠しきれず、三ケ月前に結婚したばかりだと照れながら告白した。照れていると思ったのは我々だけで、かえって外人は聞かれなくても進んで人に話すのかもしれない。奥さんの事や結婚式の事など聞きたいのだが、細い心の動きなど通ずる術もなく(多くのインド人の英語は、わかりにくい。)昨日買った孔雀の扇の事などを話題にする。途中、第二ムガール帝国時代のフマユン城に立ち寄る。赤い城門を入ると両側にヤシの並木が続き、最奥部には栄華を極めた雄大な居城があった。白の大理石ドームはこれから行かんとするタジ・マハールの前奏にふさわしいものであった。

車は更に南下する。道端に四頭の巨象と、一頭の子象をつれた一団に出合う。真横に来たら象の腹が窓一杯になり、なんにも見えなくな った。運ちゃんいわく。「ワン・ルビース・ショウ」だと、車を止めて象の芸を見ると、一ルピーとられるのだ。例のコブラ・ダンスと同じ物だ。せっかくの異国情緒もぶち壊し。象が座ったり、ちんちんしたりするショーは、もうサーカスでお馴染みなので見なくてもいい。

もう十時近い。早朝は少し涼しかったのに、車窓の風景はいつの間にか強烈な日射しに変わり、今日も暑熱が襲い、半袖、短バンなのに汗が出る。やっとアグラ市の市街へ入る。
間もなく決隆寺の門前町のような賑わいのする広場へ車が着いた。運転手の案内で人を掻き分けながら入場の札売り場へゆく。行列を作っている。入場料は意外と安い。門を潜って中に入ると、両側一杯に仏像とその写真、絵葉書や宝石、それに小物売場がずらりと並んでいた。その間を通り抜け、広壮に立ちはだかる赤い門を左に折れると、其処には目をあざむく、夢にまで見た白並の殿堂が凝然と現われた。

「これぞまさしく、タジ(王冠)・マハール(殿堂)だ!」碧い空の中、白大理石のためにそのあたり一帯が、ハレーションを起こし象牙色に輝いてみえる。 中央の水路に沿って緑の植え込みが整然と並び、数百m の奥にその距離を感じさせない大きさで調和のとれた大理石のモスクがたたずんでいた。歩いている人間のなんと小さいことか!

今から四百五十年前、ムガール王朝の最盛期に、シャージャハン皇帝がその財力に物をいわせ、妃に対する限りない優しい、慈しみの情から巨億の工事費を注ぎ込み、二十二年の歳月をかけて完成したものである。工匠は遠く西欧からも呼び寄せられたという。

贅と美の極限であろう。皇帝はなおもその上にャムナ河の対岸に、自分のためにも同じものを作り、銀の橋で結ぶ構想を持っていたのだという。人間の欲望もそこまでいくと広大無辺で愛らしさを憶える。 左手の地下室の人口で不浄な革靴は脱がなければならない。代りに五十円(入場料の五倍)の借用料を払って、スリッパのようなオーバー・シューズに穿きかえる。

磨きぬかれたホワイトマーブルは手に触れると、女人の肌のようにしっとりと吸いつ<感じだ。この石は四百Kmも離れたマルクラーナから運ばれたものだ。暗い中へ入ると丁度窓からさし込む光が、中央を照らし二つの枢が並んでいる。勿論王と后のものである。枢には碧玉・ルビイ・血石等の宝石で装飾され、三Cm四方の一つの花に六十種もの石が、嵌め込まれた象眼細工でできている。その枢を囲んでいる衡立ては、高さ一・八m の薄い大理石のもので、イスラムとヒンズー様式の絶妙に、混和した細い雁木模様が両側から透し彫りしてある。枢の安置した地下室から階段を昇ると、広いテラスに出る。高いモスクが見上げるように聳え、それは七十四m の高さがある。この大理石の大建造物は今真昼の陽光にまばゆく輝いているが、黄昏れ時には夕日に暖かく燃え上がり、月光の中では、青白く光彩を放ち、柔和な霊気を漂わせ、何ともいえぬ神秘的光景を呈し、人々を魅了する魔力があると言い伝えられている。 十一時過ぎ混雑はだんだんひどくなる。名残り惜しいけれども、そろそろ引き上げる潮時だ。


◎アグラ城からダイビング
雑踏を抜け出し、今度はアグラ城へ立ち寄る。赤い岩石の城門を潜って入ると今までのタジ・マハールの女性的優雅さとは、うって変って武骨な城塞になる。

高い壁に囲まれた長い緩やかな坂道が階段になっていないのは、馬で往き来したのにちがいない。上りきった中庭に出ると、中央には武 勲者のための広い表彰台があり、その奥に玉座がある。周囲の城壁は更に階段を昇って上に出ることができる。南の鐘廊へ行くと大きいヤムナ河の下流、遥るか彼方にさき程までいた壮麗な白い夕ジ・マハールが望見できた。

城壁の真下はヤムナ河が滔々と流れ、天燃の要塞をなしている。 さかんに人だかりがするので行ってみると、裸で褌一つのインド人がいる。聞けば五百円で城壁から十数m下の河へダイビングしてみせるのだという。金のためとはいえ、命知らずがいるものだ。水に跳び込まないうちに途中で、窒息するのでは?金をとられないうちに退散しよう。

◎大麻もどきのタバコ

アグラ市からの帰路、運転手君は沢山立ち並ぶキュリオ(骨董屋)の一つへ案内してくれた。ウィンドウにはペルシャ製の敷物や、毛皮・象牙が沢山並んでいるが、みんなゴージャスな高価なものばかり、とても手が出ない。 ハイヤーでタジ・マハールを往復する客だからよほど金持ちとみたらしい。しかし主人の名刺をもらったきりで外へ出る。

一時間程走り、昼食のためにドライブ・インへ寄る。そこには土間にテーブルだけが数ケ置いてあり、立ち食いだ。パンとコーヒーで腹を充たし、味気ないので外へ出ると今まで気がつかなかったが、沢山の蝶々が群がり飛んでいる。カバマダラ、ヒョウモンチョウ、タテハ類ジ口チョウ類。なんで捕虫網と三角紙を持ってこなかったのだろうと、今更悔やんでも始まらない。本能的に帽子を持って追いかける。鱗粉が剥げて可哀想になる。


新婚の運ちゃんがそわそわしている。そうだ彼は早く新妻のもとに帰りたいのだ。車に乗らなくては。発車後、間もなく百Km 近い猛スビードで飛ばす。はらはらさせられるが、舗装道路は比較的広いし、車も少い。しかし、おかしい事に三十分も走ると、時々 四十Km位にスローダウンする。よくみると運ちゃん居眠りをしているではないか。「はっ」と気がついて、又猛スピードでとばす。これはたまったものではない。新婚早々で眠いのもわかるし、早く帰りたいのもわかるが外国で自動車事故死してもつまらない。何とか眠気を醒まさせようと、Y氏が話しかけるが、うわの空、生返事しか返ってこない。又ぞろスピードが落ちる。デリー郊外のヤシの木や菩提樹の並木が見えて来た時は、ほっとした。まさに地獄に仏とはこのことかもしれない。四時二十分着、長い一日だった。運転手には、九千円を支払い五百円のチップを出すと、三拝・九拝して嬉んで帰って行った。


暑いのでやけに喉が渇く、水道水は恐くて飲めないし、安宿では飲料水のポット・サービスもない。インドが厳しく禁酒国を守っているのが解る気がする。エスキモーは寒さのために、酒びたりになり身を滅す破目になったが、インドが暑さのためにその二の舞いになってはならない。


冷えたビールとウィスキーを買って来て三人で乾盃する。このビールのうまさはどうだろう。


タ食は『みかど』へ行く。バンドがいるのでドルジェが得意気によく唱っていた『 ラブ・イン・東京』をリクエストしようか?と、Y氏がいうが、この店のムードからいくと高そうだから止めようということになる。だが案外、安いのかもしれない。価格の見当がつかないことが外国では一番不安だ。

日本人は何をみてもすぐ「ハウ、マッチ」を連発するそうだが、悪い習慣というよりも、不安と購買意欲のあらわれなのだ。例によって、チャーハンとスープ、三人分で〆て千百円也。安い!

夕暗迫るネオンの街に出る。熱帯夜は何処へ行っても暑苦しく身の置き処もない。


 煙草屋を訪ね歩きやっと探しあてる。第四ラジアル・ロードのデリー駅の引っ込み線の近くまで来てしまった。 うす暗い街路の真中に色とりどりの日用品雑貨や食べ物・果物を並べた屋台が裸電球に映し出された市場があった。一番はずれへくると何やらタバコらしいのが売っている。小指位の長い円錐形でカシワの葉?を丸めたようなものだ。これをさらに十本束にし、赤か緑の粗末な紙で包み、丁度クリスマスのクラッカーそっくりの形をして売っている。「ウオット・イズ・ゼス?」「オー・ゼス・イズ・タバッコ・ユー・テスト?」と一本火縄で火をつけてくれた。吸ってみると軽くてほとんど煙の味がしない。好奇心も手伝って、「ナイス・グッド。ハウ・マッチ」「ゼス・ワン・イズ・テンパイサー」一包五円である。早速三ケづつ買う。よくみるとインド人は大抵これを吸っている。これが羽田空港の税関で今流行のマリハナと間違われ、三十分以上足止めを食う原因になろうとは夢想だにしなかった。

 明日は、とうとうインドを去る日になった。思えばニケ月、前半は烈しい闘志をみらぎらせ山に挑み、望みを達した。今は予定の観光を終えて悔いるところはない。明日の出発が三時に早まったので、ホテルの支払いを済ませ、ザックをまとめ、ベットにひっくりかえる。ヤモリと共に早く寝よう。


◎木の歯ブラシ
真暗なうちに起き、ホテル・インデアを出てJALの事務所へ急ぐ。 バスの黄色い窓明りが無性に日本を想い出させる。三人のインド人が乗り合わせ、鈴木氏がその客の世話をしていた。

 もう生涯の間に二度とここへ来ることは、あるまい。何かまだやっておくことはなかったか?望郷の念と、まだ居たい名残り惜しさとが交錯する。バスは、個人のそれぞれの思考とは無関係に動き出した。第八ラジアル・ロードを南へ走り、ロータリーのあるデラックスなホテルへ、同じ飛行機へ乗る客のためにたち寄る。我々の泊った安宿とは雲泥の差だ。運ちゃんが客待ちの間に、ネムかアカシヤのような大きな木へ、するすると登って妙なことをはじめた。バスの明りでみえる木の股に腰を掛け、筆位の枝を折った。端の方を歯で皮を剥くと、夜目にも白々と木肌が浮かび出た。やがてその白い方を更に歯で噛み砕き、ボサボサにして、歯ブラシがわりに一生懸命口の中をみがきはじめた。口の端から抱が出て、ペッペッと唾を吐きながらやっている。 生木で歯をみがくとは妙な習慣があるものだ。本当に歯をみがいているのか、或るいは何かいい香りでもでて、楽しんでいるのか、さかんにゴシゴシ、ペッべッとやっている。何かのまじないなのかもしれない、我等の名ガイド・ドルジェ君がいれば忽ち得意気に名調子で説明してくれるのだが…… 。彼はもういない。ダージリンへ無事着いただろうか?

結局目的不明のまま、客がきたので歯ブラシ?をボイと捨て、運ちゃんはバスへ戻る。途中三ケ所ほど、いずれも豪勢なホテルへ止ってインド人の客をのせ、パーラム国際空港へ着く。塔乗客は三十人ほどのインド人と我々日本人の三人だ。チェック・インの後、機上の人となり出発を待つ。自由な独身貴族なら、まだまだ旅を続けるところなのだが。それでも日航のスチュワーデスの女性の顔が懐しい。
機は一路東へ向って飛び立つ。空はもう白み始めた。真直ぐ飛べば、ヒマラヤが見える筈だがそれは希望的観測にすぎない。いったんべンガル湾の洋上へ出て東進する。

給油のためバンコクへより、四時間後、香港島の対岸、九竜の啓徳飛行場へ着陸。朝食の機内サービスは、日本食を期待したが、やっぱりパンとコーヒーだった。香港はノー・ビザで七十二時間は滞在できる。予定通り香港で二泊することにする。


◎『純金』であふれる香港
 香港島へのフェリー・ポートは、二隻でしょっちゅう住復しているので、殆んど待つことは無い。木製の昔の国鉄のような改札口を通って乗船。もっとも日本の国鉄の技術導人は、イギリスからのものだから、こちらの方が大先輩になる訳だ。大陸の九竜(カオルン)半島と香港島の間の水路は十分足らずで渡ってしまう。対岸には高層ビルが所狭しと立ち並び、やけに日本の商社の大看板が目立つ。H・T・Mの電気メーカーの看板や、アメリカの空母と駆遂艦がシルバーグレイの艦体を浮かべていると、何だか横浜港へ着いたような 錯覚をおぼえる。島へつくと大きなビルが頭上を被うようにせまってくる。日射を遮え切るテント張りのポーチの歩道へ出ると、すぐタクシーがやって来た。ホテルの交渉をする。北緯二十二度の南国では九月末だというのに、まだやけに日射が強烈だ。残金はもう全部空港で香港ドルに換えてある。エアコン付きの安いホテルがあるというので案内させて行ってみることにする。雑居ビルの二階の奥に大きな扉があった。その扉の奥がホテルなのである。ホテルというより貸し部屋といった方が正しい。

 運転手は扉の横にあるフロントのマスターに何か連絡し、チッブをもらって帰って行った。大きい、いかつい扉を開けると廊下があり、左右に十室ほど部屋が並んでいる。個々の部屋には又鍵がついていて、マスターはその一つ八畳位の部屋の戸を開けた。鍵を二個渡しながら、「この辺は非常に危険なので、施鍵を厳重に守って下さい。小さいのは、この部屋の鍵、大きいのは帰って来た時、さっきの共通出人口の扉を開けるためのものです。」と、その使い方を詳しく説明し、飲み水をつめたビール瓶を置いて出ていった。ホテルとは名ばかりで、アパートにもう一つ共通扉がついたものと思えばよい。

ザックを片づけ、ビール瓶の水を飲み、ようやくほっとする。午後一階に下り、香港探訪に出る。 きすが世界の香港だ。ビルの中に縦横に通路が走り、時計・カメラ・貴金属・衣類・世界一流の商品が溢れんばかりに並んでいる。純金の指輪・腕輪がまばゆい。さすが免税の偉力がうかがわれる。 通路がビルの中なのか、外の道路なのか区別もつかない。 最も賑やかなここ、セントラルはビクトリャ・シテーともいわれ、 香港のメインストリートですぐ隣りに銀行街がある。 看板の字は、今までの横文字にくらべようやく縦書きの漢字が多くなり、なんとなく親しみを感じてほっとした気分になる。
観光案内所へ行き、市内(島内)見学の交渉をする。二時聞位タクシーで一巡し、一人二千円かかるのは高すぎる。そう広くもなさそう なので山で鍛えた足を活用しよう。 二十分も島内の奥の方に向って歩くと、もう細い登り坂の道になり、難民の雑多なバラック建ての場末に行き当ってしまった。

 この坂の多い難民街と海岸通りの高層ビル街は、一体同じ経済基盤の上にあるのだろうか。と不思議でならない。この二つの好対照の街の中間に、名にし負う食料品店街と飯店街がズラリ軒を連らねているのである。裸のアヒルやニワトリが竹竿にぶらさがり、ブタの頭が並んでいる。こうなると奇異や気持ち悪さより、むしろ壮観で食欲がそそられるのが不思議だ。 昼めしはそれらの一軒へ入り、あっさり毎度のチャーハンとスープにし、帰途象牙製の扇や、ソファーの背当てを購人する。


◎香港の『 生寿司』
ホテルのすぐ近くに『東京』と書かれた寿司屋を発見し、大よろこびでとび込む。ところがそれがなんと二十階もあるビルの七階にあった。それでも、マグロのトロやイカがあり、日本酒にもありつけた。聞けば毎日、航空便で日本から「ネタ」を取り寄せているという。ホステスはタスキ掛けに割烹着姿だった。着物姿を見るのは二ケ月ぶりである。もう日本は近いのだ。

夜の香港は恐ろしいというが、やはり百万ドルの夜景は素晴らしい。スチールカメラと八ミリカメラに納める。二日目、島の反対側、即ち南側にあるジャンクの水上生活者達、蛋民の様子を見に行きたいのだが、こっちも蛋民なみに足代にも事欠く始末になったのであきらめざるを得なかった。それだけが心残りになった。しかし、九竜の啓徳飛行場まで行く金だけは確保しておかなければならない。乗ってしまって羽田に着けば、丸裸でも家族が待っている。 なんとしてもそれまでは、綿密に計算せねばならない。仕方なしに安い五分床屋に入る。 九月二十四日。出発してから丁度二ケ月目、香港を出発する。

 飛行機はビルの林を後に飛び立ち、間もなく海上へ出る。眼下には、南海の青海原の中、白い波に囲まれた美しい珊瑚礁が点在する。

遠征は終ったのだ。羽田空港の税関倉庫には、八千丁にものぼるグルカ・ナイフが保管されている。私達遠征隊は十二月末、横浜港に着いた三ケの木箱につめられた装備を取りに行った際、空港の税関とかけ合い、グルカ・ナイフを贈答記念品として取り扱ってもらい、刀剣所持許可証と一緒にそれぞれ三丁の所有を認可された。

日本でグルカ・ナイフは見ることができない、すべて税関の保管庫に眠っているのである。我々のみがそれを持っているのは、マナリー遠征の太い絆で三人が結ばれているからである。


あの八月二十二日マナリー峯に降った雪は、初雪だったのだろうか?それとも最後の降雪だったのだろうか?

深く詮索する問題でもないし、そのつもりもない

いつも降っているのだから。

ヒマラヤの雪は永遠である。

インド~1.jpg


おりひめ第14号より転載


 羨ましいな~。

 私もインドヒマラヤへのトレッキングに憧れています。
気がやさしくて力もちのガイドを雇って、朝は「グッモーニング、サー!」の一声で目覚め、入れたてのミルクティーをおもむろに一杯、エスニックな朝食の後、「ぼちぼち行こうか」と出発。自分のペースで歩いて、疲れて歩くのがイヤになったらその日は終了。ガイドは毎日器用に泥をこねてカマドを作り、それで焼いた「ナン」と本場の「カレー」のうまいこと、酒は火の酒・・・あれ?インドは禁酒国だっけ?まぁ何はなくても空には満天の星。「サーブ(旦那)明日も晴れますぜ!」「明日はなんとかマナリーの見える所まで頑張りましょうや・・・」
 こんな調子でヒマラヤを拝む事ができたなら、最高の贅沢でしょうネー
 円が強いうちに実現したい夢・・・

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おりひめ14 [山荘関連]

山荘の図面を引いたカクダ君がなかなか達者な文章を書いています。

やまびこ国体

 国体出場は中学以来の憧れであった。大会出場は、私自身を英雄にしてくれるのではないかという気持ちがあった。現に私の友達で、幾つもの大会に出場し何回もの入賞を手にした人がいる。そんな友を見ていると無性に羨ましく思えてくるのである。そんな時、私のずくのなさ(編者注:能力、才能の無さ)が、まざまざと見せ付けられる様な気さえしてくるのであった。しかし、今その大会のメインとも言うべき国体に出場出来るのであった。夢にまで見た国体に出場できる何て・・・・・・。それも私の好きな山登りで出るのだ。こんなにラッキーな事は、これ以後二度とないだろう。

 入部したての頃は、ただ先輩にくっついて行き、体力をつけてきた。苦しい事など数えきれない程、味わってきた。私の知らない事を、顧問の先生や先輩達に、なりふり構わず聞いて私自身のものにしていった。しかし、いくら聞いても疑問は膨らむ一方で、尽きる事はなかった。そんな時、私は本屋で一冊の山の本を買って読んだ。それが面白くて色々な山の本を読んだ。そうする事によって、多くの疑問が解けていった。こんな事の繰り返しの一年間だった。

 二年の時、先輩が全国大会に出場するのを羨ましく思った。本当に出場したいと思った。一度でいい、大会というものに出て、私の力量を測りたかった。しかし、その時はまだまだ未熟で、どうする事も出来ない私には、大会になど出場出来まいと思っていた。

 やがて三年になり、五月に国体予選があると聞かされ、これは、何が何でも絶対に出場してやるぞ、と心の中で固く誓っていた。しかし三年男子は二人しかいない。もう一人足りない。二年生から選ばなければならない。私は色々な角度から二年を観察したが、どっちもどっちだった。結局体のがっちりしているSを選んだ。これでパーティのメンバーは決まった。私とMとSだ。よしこれならなんとかなると思った。

 県予選の会場は米山だった。大会はおろか、オリエンテーリングのオの字も知らない我々は、内心、心配でどうしようもなかった。しかし、この心配とは反対に意外とリラックスできた。何故なのかは、思い浮かばないけれど、とにかくリラックス出来たことにホッとしていた。この時、我々のチームは勝利の女神に拾われた。まさかと思っていたが、やっぱり日頃のトレーニングや顧問・先輩達のおかげだと思った。そして私には充分の力量があるのだと確信した。

 我々のチーム三人が、県の代表になる事は出来なかった。新潟県の山岳競技の選手の選出は、優勝校チームからではなく、一位から三位までのリーダー一名づつ選ぶ方式だった。そのため我々のチ-ム二人が抜ける事になった。せっかくここまで一緒に登って来た友と、どうして一緒に出場する事が出来ないのだろうかと、怒りたい気持ちで一杯だった。

 選手が決まり、北信越予選も無事一位で通過した。いよいよ国体出場だ。

 今まで北信越大会や色々な合宿をしたが、私にはまだしっくりこないものが心の底に居座っていた。それは、他校の二人の気持ちを見通す事の出来ない事や、私にあまり話しかけてこないという事だった。いつも二人で話し、行動も二人だけでやっている様な気さえした。そんな二人に交わる事の出来ない私の性質を悔いたのも、そんな時であった。しかし、私はチームの纏め役である。こんな事は言っていられない。なんとか交わり、チームを最強のものにしなければならない。

 私の最後の締めくくりである、やまびこ国体秋季大会の開幕であった。この大会は、私の自惚れの気持ちを痛めつけ、そうあってはならない事を教えてくれた。そして色々な面で学ぶ事が多かった。例えばパーティとは何か?リーダーとはどうあるべきか?・・・・・・etc などである。楽しい事もあった。民宿の人達との団欒などが一番印象に残っている。

 部員全員の協力でここまで私は成長した。本当にありがとう。そして後輩よ、思いっきり山を楽しみ本当の山の良さを追求してほしい。そして決して大会を疎かにしないで欲しい。大会は、山に登るときにどうあるべきかを教えてくれる。しかし「大会ヤ」になるな。

大会ばかりが能でない。自分達の楽しい山行をしてくれ。

おりひめ第14号より転載

当時リストラに遭って失業中だった一級建築士の彼に山荘の設計・管理をお願いしました。建築確認申請や固定資産関連で2回、工務店との打合せや設計変更等で8回、埼玉から塩沢町役場や巻機の現地へ通ってもらいました。通常、総工費の5%が相場という設計管理料を、彼は交通費と日当十◎万円分だけ受け取り、あとは全額、会に寄付させられま・・・失礼、寄付されました。
 その後、建築会社への再就職も決まり、二年ほど前には可愛い嫁さんも貰いました。積善ノ家ニ余慶有り・・・ですね。ヨカッタネ、カクダ!
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ボカスのが申し訳ない位美人な奥さんです

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おりひめ13 [山荘関連]

過ぎ去った『あの一年』がR先生の軽妙な筆致で甦ります。


この一年を顧みて

 今年一年間の活動をふりかえると今年ほど巻機に縁のあった年もなかろう。

春山合宿から送別山行までクラスの山荘旅行を含めると三十日は巻機に行ったろうか、清水に山荘があるという事より、各大会が巻機山域に集中したためでもある。

 全国大会二チーム、国体に一チーム出場という部にとっては多くの点で大変だった年であり、それなりに意義があったが、わがクラブ独自の楽しい山行が少なかった点、一抹の寂しさがあろう。以下、この一ケ年の反省や印象深い出来事をふり返ってみたい。

△ △ △ △ △ △ △ △

 今季の春山合宿は例年の如く三月下旬の六日間、山荘をベースに行われた。一年の活動の原点であり技術習得の合宿である。雪上技術は勿論、幕営技術の向上が目標であった。合宿初日は春の陽光と南風が吹く暖かな日で、男子は沢口より、キスリングを背に山荘まで歩く。舗装された無雪道路が更に延び、清水まで真冬でも車が入る時代となったが登山者にとっては便利になっても果たしてプラスだろうか。

交通機関の発達は山へのアプローチを無くしてしまい、山への序章の楽しみが失われた、とある登山家が嘆いたのもあながち嘘ではない。とは言っても沢口を後にすると悔いる気持ちだ。荷は重い。道は長い。今冬あれほど降り続いた豪雪も意外と少ない。途中、選挙の車が行き交い、雪の山郷にも春が来た事を告げる。

部落に着き、新衛門(編者注:旧山荘を管理してもらった民宿)に寄る。毎年この日、親父さんに山荘の雪堀の苦労話を聞くのだが、人手もない厳冬期は大変だったと思う。部落からスキーを背に二汗もかいて杉木立の道を登る。夏は急登で長い道も、雪道となると辛いがさして時間は掛からぬうちに天狗岩が見え隠れしてくる。もう少しの頑張りだ。T大山荘を過ぎて橋をまわると懐かしき山荘に着く。一日目の夜は楽しい。合宿の前途を祝って乾杯する。

 停滞の日もあった。炬燵を囲んでH先生の座学を聴く。こんな午後もあっていい。その夕方、N先生、I OGが雪を踏み越えてやって来た。お隣さんのT大さんに遊びに行く。快活な五人の山男が我々を迎えてくれた。うちの女子も仲々やる。我々には見せない一張羅のセーターを着ていくのだ(その気持ちは良く分かる)

 登山予定日の三日目。悪天候を予想して寝たのだが、起きてみると皮肉にも快晴だ。春山の天気は難しい。登山準備をしていないのでスキーに変更する。新雪のゲレンデは実に素晴らしい。二年生は初心者だが雪面に穴をあける数ほど上達する。三年生がその証拠だろう。寒い中での雪上訓練も辛いが、広大な急斜面での訓練は効果があった。特に雪上歩行はザイルワークと共に身につけてほしい。雪渓を登る事が多い越後の山ではいかに大切か、きっと分かるだろう。その夜、T大の三人がやって来た。酒一本空にして酔いもまわる。今夜は女子がテントに泊まる日だ。

 昨夜の予報では好天は期待出来ぬが四日目に巻機登山を実施。七時に山荘を発つ。井戸の壁手前で朝食。冷たいお握りは喉に通らない。今朝はトップのH先生が実に早いペースだ。ラストが辛い。三年男子が一泊する為七合目近くの森林限界にテントを設営する。曇り空に風強く雪面はクラストする。八合目の急登を越すと更に風強く寒い。ニセ巻の避難小屋脇で震えながらの昼食。食後ものんびり出来ず樹氷を背に証拠写真を撮って一気に下る。テントでH先生達を見送り、のどかな陽光を受けて暖かいテントの中で横になる。

夕方、ザラメの雪に四回ほどシュプールを描く。少し登って眺めると広大な斜面に黄色のテントが実に小さい。夕食は洋風おじや。何か飲みたいが何もないのでチョコレートを湯に溶かして五人で飲みまわす。山の端に陽は落ちたが、気温下がらず三日月がかかる。湯沢あたりのスキー場の花火がシーズン最後を飾って微かに光る。二十時過ぎまで男同士の話をして寝袋に入る。

 夜半すぎ、風の音に目が覚める。(時計は三時を指す)テントは膨らみ雪面を吹き荒れる風は二十mを超えていよう。フライが音をたてて鳴り、眠れない。唸りを発して吹き続ける風に不安をかきたてられテントが倒れるのではと心配する。朝までには弱まると期待するが仲々、時間が経過しない。足先が寒い。実に長い夜明けだ。三年生は熟睡している様で羨ましい。風雪となった様でテントに雪が舞い込む。

 七時過ぎ、漸く風が呼吸する様に間歇的に吹き止み始めた。内心ホッとする頃、Nが用足しに起きる。まだ入口から外には出れぬので反対側を開けて済まさせる。風が弱まり始め八時に外に出て撤収を開始した。埋木のロープが凍ってほどけない。歯で噛んで苦心の末ほどきようやく撤収作業終了。数人のパーティーが登って行く。九時すぎる頃、あの強風が嘘の様に止み陽が差して来た。

 皆、心配していると思いながら下山開始。ブナ林を滑り降り井戸の壁の先端に出た。山荘が見える、誰かテラスに出てこちらを見ている様だ。手を振り大声でコールする。

三年をトレースに沿って下山させ、左斜面を滑り降りる。上から見ると息をつめる程の覚悟がいる。一気に斜面を横切り、ジャンプして三、四回曲がるともう下にきてしまった。ブッシュに突っかかり大きく転倒。生徒が下ったのを見てからそのまま二子沢目指して林間コースを滑る。快調!踏み跡もない最高の斜面だ。空は青く陽が眩しい。沢を渡り斜面を登れば山荘だ。H先生が迎えてくれた。

吹き荒れた稜線も白く浮かび上がっている。皆、五人を案じて心配していたと言う。「ありがとう」遅くはなったが無事下山できた。

 我々には山荘の近くで泊まるのだという安易な気持ちは無かったか?たとえベースの近くの幕営にしても非常食、予備食は持つべきで雪山であれば完全装備をすべきだろう。指導不足を痛感すると共に良い経験となった。又今回は各学年単位で雪上幕営を実施したがテント設営に時間が掛かりすぎる。こんなに立派な山荘があるのは幸せかも知れぬが、山荘に甘えているという声もあり同感である。もっと積極的な活用が必要であろう。多くの面で収穫があった合宿である。

▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲

 新学期になって慌ただしい日々が過ぎて春山講習会が近づいた。春山合宿から一ケ月後の巻機に再び行く。山麓はすっかり春の装いとなり新緑に桜が花を添え、春が一日一々と山を昇っていく。T大山荘奥のゲレンデが幕営地で、天気にも恵まれ花見も出来た。講習内容は合宿の復習とは言え、他校と比較できた点、良かったのではないか。春早い割引沢も楽しかった。ニセ巻機に突き上げる急峻な沢の雪渓は快適だ。一歩毎に天狗の頂が足下になり高度が稼げるのだ。

 グリセードで下った涸木沢は面白かった。しかしグリセードそのものはどうだろうか。高校生でなくとも下降はキックステップで確実に歩行すべきで、繰り返し身体で覚えるのが先決だろう。安全な斜面で楽しむのは悪くないが、重い荷を担いででは勧められるものではない。楽しみにして来たスキーも講師を依頼されるとそうもいかぬ。幕営地付近で五回滑っただけだが花見が出来た事で満足しなくては。講習会が終わってからの山荘での一泊、新入部員を迎えて春の陽を楽しんだ。

△ △ △ △ △ △ △ △

 帰ってすぐ五月の連休に再び巻機に来た。国体予選である。どうも部員は余り乗り気でないらしい。一般のパーティーと一緒に参加するのも良いではないか。国体の登山競技も得点種目になるそうで競争化の傾向が強く、OL(オリエンテーリング)の様な踏査競技と重量制限のある縦走競技では本来の登山の在り方と違和感があるのは歪めない。

 塩沢町から踏査競技がスタートして、清水分校に再び集まり、荷を計量して不足のパーティーは三人合計七十Kgにして縦走競技の出発。軽量化とは逆にザックに石を詰めなくてはならぬ矛盾である。雪解けの井戸の壁を登り五合目で幕営。翌朝、残雪を踏んで巻機往復、森林限界で「ホウキ雲」の雲海を眺めた。もう一汗かいて頂上に立つ。いつも会う会津、谷川の山々はまだ白い冬の装いだ。帰路、割引沢を下り、雪崩の痕跡を見る。閉会式で女子は八甲田行の切符を手にした。北陸予選での健闘を祈る。男子の得点は意外に厳しかった。踏査の失敗があったにしろ、意気込みが足らなかった。反省したい。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 六月上旬、例年の様に県大会が近づいてきた。考査後で準備の日数も少なく、すぐ大会になった。この大会に懸けている三年男子は心中期するものがあった。困ったのは女子である。予定の三人が先の国体予選で青森行となれば誰を出すか?一・二年でメンバーを組まなくてはならない。出場した女子には悪いが即席チームである。短時間ではメンバーシップは望めない。準備する事が余りにも多い。ペーパーテストの模試もやった。一夜着けの効かぬ事は君達の方がよく知っていよう。地図に着色し、コースを入れて現地のイメージを頭に叩き込ませ、予想される小テストの設問をする。テント設営、装備、食糧計画、そしてトレーニング。あっという間に前日となる。国体三人娘は実によく手伝ってくれた。(内心、男子はいい線までいくのではと期待し、女子は精一杯やればそれで良し。模試のつもりでやって来い)

 一日目。清水分校に出場校が集まる。ペーパーテストは日頃の座学と山行経験がものをいう出題だ。車道を登川まで歩いていよいよ、きついと言っておいた謙信尾根の登りにかかる。バテるパーティーも出る。空が怪しくなり清水峠で豪雨となる。女子は全員濡れながらの設営。新校OBの助け船でなんとかフライを張る。食後、濡れたまま寝袋に入る。明日は早い出発だ。

 国境稜線を巻機に向けて縦走する二日目である。ジュンクションで女子隊は二校となり、男子は快調に先の方を歩いている。女子隊の後尾をK、Y先生らと歩く。山はまだ豊富な残雪があり春山だ。北に向って千七百~九百米の頂が幾重にも連なり重厚な山波が続く国境稜線である。

 大烏帽子の登りで一年のIがバテはじめる。山行といえば今回が初めてと言っても過言ではなく、雪渓歩行もペースを知らぬのは当然だ。早めの食事を摂らせてもらい、水を余り飲ませずに兎に角食べさせた。食べなくては駄目だ。昼食後元気になった。

槍倉、柄沢山と登降を繰り返し、石楠花、山桜が灰色にガスった空に色を添える。女子は頑張り牛ケ岳の雪田で男子隊を追い抜いて巻機から八合目の避難小屋目指して下った。体力の限界を超えた十三時間の行動だったが、共に歩いた中央校の掛け声に力づけられて歩き通したのだ。

 三日目。下山して閉会式。男女共よく頑張り、晴れの県代表として広島の全国大会に出場することとなった。他校の分まで中国山地では健闘して来たい。

△ △ △ △ △ △ △ △

 代表校となった後、八月の大会までの準備も何かと大変だった。男子代表の長岡O高校と連絡を取って今後の日程を決める。強化合宿の打ち合わせ、大会申込、予算請求、列車の手配に装備の購入等で月日は実に早く過ぎた。

それに今夏、山荘十周年記念行事の準備も重なり多忙な日々であった。そのうちに国体女子にM、K、Sの三嬢が正式に県代表となり7月下旬のブロック予選に八甲田行きの切符をかけて出場する事に決まり、その準備もしてやらなくては・・・

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △

 梅雨も明け夏本番となった七月下旬、夏季行事に引続いて清水峠~谷川縦走の夏山合宿を計画する。今回はインターハイ強化合宿も兼ねて最後のトレーニングである。北信越ブロック予選で一位となって代表権を得て戻ってきた国体三人娘も加わり部員十八名が二十五日の昼過ぎ、炎天下の中を清水峠に出発した。

広島の暑さを想定して車道を歩くが、翌日またこの道を戻るとは誰が予想したろうか。

登川で大休止してゆっくりしたペースで謙信尾根を登る。予定より遅れて清水峠についた頃、風もあり気温も低く寒気を覚えた。汗に濡れた衣服を着替えた。生徒にも着替えを指示するが徹底させなかった。

 遅い夕食後、寝る準備に取り掛かった二十二時頃、Sが熱あり寒さを訴えていると言う。検温すると三十八℃を超えている。H先生が厚着をさせ冷水で冷やす。他のテントのHも高熱という。Sは夜半に三十九℃を超え、翌二十六日二時には四十℃となる。こんな高熱は何が原因だろうか。下痢がないか心配するが本人達は熱いと言うだけでその気配はない。Hは時々うわ言を言ったという。額にのせたタオルはすぐ温かくなり相当の熱だ。三年に聞くとSは山荘で風邪気味だったという。六時過ぎまでSは四十℃、Hは三十九℃の高熱が続き、下がらない。先にH先生に仮眠してもらい途中で交代して二・三年生と一緒に看護と検温にあたった。


 今朝の投与が効いたのか、二人の熱も下がり始めた。救助隊も遅いので覚悟を決めて自力でゆっくり二人を歩かせて十一時四十分下山を始める。小休止を取りながら快晴の井坪の道を下る。十三時前に救助隊と合流した。新衛門の親父さんの顔を見て安心すると同時に下では大騒ぎをして多大な迷惑をかけているだろうと思うとすまない気持ちになる。親父さんに昨日からの経過を話したが、直接連絡してくれたらと言われても今朝の状態ではとても出来ない事と思う。十四時に雷雨の中を車道に出て役場にジープにH先生と(発熱の)二人と二年のTが乗る。救助隊の方々に厚くお礼を述べ他の部員は歩いて清水に戻る事にする。空腹を忘れていた。濡れたパンでも口に入りジュースがうまい。雨の車道を清水に戻る足は重く、歩みも遅い。昨日この道を歩いた事が一年も昔の様に思え、この一日が実に長かった。

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 あの状態を考えてみると二人の高熱のある者を峠から下山させる自信は我々にはなかった。これ以上病状を悪化させず病院に運ぶ最善の方法としてヘリを要請したのである。マスコミに、他人に何と言われようが、無事に二人を親元に返さなければならない。

帰宅して新聞を拡げたら我々と同じ日時に同様な状態で発熱した高校山岳部(横浜市)の記事が目に入った。北アルプスで三日間、看病した結果手遅れとなりヘリで富山まで運ぶが肺炎を起こして死亡したのである。措置が遅れて最悪になってから救助を要請しても手遅れの場合どうするのか。遭難騒ぎで強化合宿の目的も果たさず帰校後、広島大会の準備に追われる。どうも意気があがらない感じがする。計画書も仕上がり準備も進むが時間的にはやや不充分だった。

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 八月二日、見送りを受けて東三条を発つ。約一名、座席が余るのだ。大事な時にNが遅刻した。子供でないのだ、なんとか広島に追いかけて来るだろう。新幹線で西へ五時間、暑い広島に降り立つ。

食糧購入、事前打合せをやり四日に会場の戸河内に向う。市中行進は暑かった。全国から山の仲間が集まって開会式となる。菅笠が揃った新潟県代表に拍手もおこる。山梨の南アルプスの大会で会った先生、富山の講習会で世話になった友人にも会えて旧交を温める。やはり全国大会に来たという実感が湧く。式後、各コースに分かれる。

 H先生と四人娘、長岡O校とも暫くお別れだ。大会の様子は報告書を読んで貰うとして我々の歩いたBコースは暑くて長い道だった。大会のコースを設定するのに苦労したと聞く。山高きが故に尊からずで、それなりの良さもあった。細見谷も奥三段峡も面白く涼しかった。長い林道にはいささか堪えたが、千米級の準平原が拡がるのは中国山脈ならではの景観だ。

 夏の一週間の旅で同じ精神状態を保つ事は非情に難しい事を思い知った。県大会で見せてくれたメンバーシップが見られず、意気込みも確かに欠けていたと思う。行動中に声が出ない。持てる力を充分に発揮する事は難しい。先の夏山合宿の挫折感もあろう。それから立ち直る時間も少なかった。多くの反省事項もあるが、それよりも全国の山の仲間と友情を深め、他校の優れた点を学び取る事が大切なのだ。

青春を中国山地で燃焼させた君達は幸せと言うべきだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △

 大会も終わった。タ◎ノは夏期講習のため東京へ直行。残った九人は急ぐ旅でもない。各駅停車で山陽路を上る事にして、途中下車も大会の付録として帰りたい。尾道のグランドでテントを張り、残った食糧を始末して一泊する。瀬戸内の海を車中から眺め、倉敷の古い町並みにも立ち寄った。大阪から夜行に揺られ二日がかりで帰ってきた。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 帰ってまもなくお盆の十四日に一年遅れの山荘十周年式典。建設当時の校長以下、OGが集まった。広い山荘のテラスも狭い程だ。建設当時の思い出や苦労話に花が咲き、遠路馳せ参じてくれたOGもいて、初めて会う貫禄ある先輩も多かった。

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 秋、十月。東高が当番となって秋季大会が開かれた。(編者注:京都桂高校の高田直樹先生http://www.takadanaoki.jp/が講師として参加された)紅葉の映える巻機に三百五十名が参加、小さな事故もあったけれど秋の割引沢を満喫した。

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 これで今年の役割も終わった。春から兎に角忙しかった。

 今季、七度頂上を踏んだ巻機山であるが、来年もまた、登りたい。


おりひめ第13号より転載 (フェ~長かった~!)

男ざかりの働き盛り R先生三十六歳の「充実した?一年間」の記録でした。ある章では「あったな~そんな事!」と膝を叩き、またある章では穴があったら飛び込みたい衝動にかられ・・・山での休憩中、タバコを片手に大判の手帳にペンを走らせていた先生の姿が目に浮かびます。

(編者注:明らかな印刷時の誤植は訂正、天気図解説や当時の新聞報道等の記述は割愛しました)




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おりひめ12 [山荘関連]

山岳部初の女性顧問だったN先生の寄稿文です


山行・・・一年を振り返って

 そう、私があの頭でっかっちで不格好なキャラバンシューズを何気なく友達から二百円で譲ってもらったのは、十一年前の教職に就いた年でした。登山をする目的や意志を持っていた訳ではなかったので仲間や生徒が貸してくれと言えば、気持ちよく靴に貫禄がつくから、いいや!程度で転々と人の手に渡り靴だけは持ち主より色々な山の経験をし箔をつけていたのです。その貫禄だけは一人前の靴を履いて名誉ある東高の山岳部の仲間に入れてもらい山行をするなど考えてもみなかった事です。


 無知ほど恐いものは無いとよく言われるが、まさしくその通り、H先生、R先生の素晴らしい人柄に惹かれたのと「年に二回程山行をしてくれれば良いし、女生徒に女の先生が必要な時もある」と甘い言葉を囁かれ(?)自分も田圃で鍛えた太い足(特に太もも)があるから(私嘘言わない・・・今度みてね・・・ただし女生徒のみ)でも結局は皆さんにご迷惑をお掛けする事になってしまい本当に申し訳なく思っています。


 情熱を内に秘め、いつも優しい笑みを浮かべているTさん、不言実行の人ですね。カツカツと女医のように廊下を歩くEさん、テキパキ指導をする姿をみて圧倒され尊敬していました。私にとっては色々勉強させて頂き有り難くまた、私の青春(~のつもり)の異色の思い出に、良かったと思っていますが、お二人にとっては、どんなにか疎ましかった事でしょう。一年間でしたが本当にありがとう。でもこの原稿を催促されている時は恐怖の三年生でした。


 恐怖と言えばやはり八海山の初めての岩登り。私の人生であのような真面目な顔をする事はこの先ないと思う程、真剣でした。ここで滑り落ちたら三十過ぎた女が何の気を起こしたんだと笑われてしまう、また、山岳部に迷惑をかけてはいけないと必死でした。それだけに登りきっての山々の眺めは言葉では言えない。狭いピークで立って眺めるのは情緒不安定で、どっかり腰をおろして満喫しているのにミヨちゃんたら!ああ、今思っても精神衛生に良くない・・・・・・。帰宅は遅くなり御父兄には心配をお掛けしたが八ツ峰を攀り通し感慨無量です。とにかく脱落しないようにと軽量化を計りすぎて電池をも省略し、S君にも迷惑をかけてしまいましたね、君と握手した時のあり難かった事は一生忘れないでしょう。


 こうして考えてゆくと懺悔しなくてはならない事ばかりです。インターハイ予選の守門岳も夏山合宿も良かった。笹ヤブの辛かった事、そして稜線に出た時の嬉しさ、イワ桜の愛らしさ。一つ一つ感激でした。それにしても小兎岳付近で幕営した所のお花さんには可愛そうな事をしたと心が痛みます。雪渓の所で小休止し雪取りしている皆の姿がガスでボンヤリしていた光景が今でも幻想的に思い出される事です。駒の湯、ぬるくて楽しくて一時間もはしゃいでしまった。朝、陽光に照らされた駒ケ岳を下から眺めた時は、胸がキュンとした。本当に山の素晴らしさを味わせてもらい感謝している次第です。


 来年も許されるならば仲間に入れて頂きたいと思っています。


 二年生はチームワークの良さで、さらに素晴らしい山岳部に発展させる事と思っています。


おりひめ第12号より転載


美人薄命を地でいくかのように先生はマンモの病で夭逝されました。病院へは旦那様が運転する車で通われ、お見かけする時はいつも凛とした着物姿でした。余命を覚悟してお洒落を楽しんでおられたんだ・・・今思うとそんな気がします。


秋刀魚の味.jpg
小津安二郎監督「秋刀魚の味」より



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おりひめ11-2 [山荘関連]

一年間だけ顧問をされたT先生が格調高い詩を寄稿しています。

「価値ある終幕の追慕」

今にして思う。・・・・・・コップの中の静かな日々、そこは、真っ白い空間の中をスローモーションで走るような”記憶の宝庫”

 

霜雪の帳をかすめ茫洋と広がる地平に

今根ざした新しい詩歌は

限りなく燃え栄る言寿ぎの意をこめて

万般 遥(か)上に注ぎ生まるる

若きらよ

正諫の道に軌う心の温もりが

やがて哮りくる飛沫となりて

林泉と林薄の脈ある此処に

枯栄の情を心に施そう

織姫の春秋、そこは自由を保障された、”ユートピア”の青春の舞台だった。風景、物、自然の瞬間的事象の中に歴史の顔が浮かび、内実の想念が呼びさまされる。

東雲は今、紫紺の光沢を掲げた

---去りゆく者よーーーーー

山河襟帯のみどりは

旅立ちの色彩と妥協を許さない感動を刻み

間奏曲の醸しだす愛惜の戯曲は終わった

---しかしーーーーー

たゆまぬ千々の響と

久遠の残光にこそ

限りなき飛翔の春は展開されてゆくのだ

怒涛の中の歓呼、歓呼の中の怒涛、玉響の昂揚、虚妄のユートピアのように一つの淡い想い出になってしまうというのだろうか、そのなかの真実、人生は方言でしか語れない。

ロードゲームに出た旅芸人のような不安定さ、がむしゃらで、精一杯で・・・・・・しかし確かに息づいておりました。

永遠の響と

自然の織りなす踏青に

喜雨をたしかめる指揮者のタクトは振られた

勇壮な追憶の視覚と鋭声は

測り知れない群青の世界を創りだした

ソプラノ アルト バスの醸しだす旋律は風致を極め

呼吸身に迫る立体的音響は多彩な心の微動となって感動を映発させた

永遠の響と

高調された眼界の道程に立って

---指揮者よーーーーー

今一度朝光を胸に掲げよう

一つの使命を終えて、織姫は三年間の春秋にピリオドをうつ。全国大会出場という足跡を残して。


おりひめ第11号より転載


山荘廃止の議論がPTAより起こり、「存続嘆願書」を学校に持参、その時に丁寧に対応して下さった校長先生がT先生でした。もう一廻り以上も昔の話になりました。

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おりひめ11 [山荘関連]

ついにと言うか、とうとう野郎どもが入部して来ました。

雄大であった飯豊山

八月二十四日、朝、いろいろと準備があるので普段より早く六時に起きる。朝食を食べ、自分なりの下手なパッキングをして家を出る。

気分が悪く、あまり行く気がしないので駅へ行く足が鈍く感じられた。

十時五十分、汽車は坂町駅に着く。この町のなんとかいう食堂で、昼食を食べる。食堂から戻ると、先生たちは駅前で、今晩食べる肉を、ブタンガスで焼いている。先生はそれが終わると、僕たちにパッキングの講義とも言うべきものをしてくれた。すると、あんなに不格好だった僕のキスリングが、ものの見事に直方体の形をした塊に変わってしまった。

三時五十五分、沢の見える場所で小休止。キスリングを背負って登山をするのは今回が初めてなので、ものすごく圧迫感を感じた。キスリングの重さと暑さのダブルパンチで、こんな調子で登れるのかと不安に思った。

 五時三十五分、幕営。来る途中に吊橋が二本あり、二本目の橋は重量制限八十Kgだった。先輩からブタンガスの点け方、天幕の張り方、その他諸々のことを教わり、いい勉強になった。夜はキャンプファイアーを囲んで御飯を食べたり、歌を唄ったりして、とても楽しかった。

八月二十五日。七時五十分、なんだか訳の分からないうちに沢登りに変更。キスリングが胸を圧迫して苦しかった。足を一歩でも滑らしたら、雪渓のふりだしまで滑り落ちてしまいそうな急角度の雪面上をH先生がカッティングした所を僕たちが一歩一歩、キックステップしながら登る。何度か足を滑らしそうになり、とても恐怖感を感じた。

二時二十五分、幕営。八虫の様なものが沢山いて、Nの顔の周りを、歓迎しているかのように何十匹もとり囲んでいた。その後、Nと二人で、北股岳の頂上まで登り、ナニをする。(編者注:多分・・・大キジ? 頂上で? ウソだろ~)気分爽快、すこぶる快調ナリ。こんな事は、山へ登った者だけができる素晴らしい?事だと思う。

 夜、僕は天幕の端に寝ていたので、ものすごく寒くて、眠れなく、いい気持ちで眠っているNが憎らしくなってきたので、蹴飛ばしてしまった。(N様、すみません)本当に寒くて眠れなかったので、実際の睡眠時間は二時間位だと思う。

 八月二十六日、時刻不明。寝不足と暑さがたたったせいか、鼻血がでてしまった。先輩たちが帽子で扇いでくれたので直ぐ止まった。(三年生の皆さん有難うございました)僕は副鼻腔炎だったので、早いうちに医者に行っておけばよかったと思う。

 一時十分、飯豊山頂まで、あと少し。

一時三十五分、飯豊頂上着。僕は、このとき一人だったなら、あまりの感激に、きっとバンザーイとか、ヤッタゾーとかと、大声で叫んでいただろう。今までの僕の山に関しての常識では考えられないような山また山。「人工」という言葉は存在しない。この時ほどこの山を登って、また山岳部へ入って良かったと思った時はない。

 この日の夜は、先生と打ち溶けあって話し、先生と友達の様なものにでもなったような気がした。

八月二十七日、朝七時出発。下山の途中、先生方から水の飲みすぎを注意され、まだまだ未熟だなぁと思った。

午後七時十分、家に到着。ものすごく眠たかった。

 この度の登山を通じて感じられた事は、まず何と言っても、体力不足という事だ。15Kgキスリングを背負ってすぐ息を乱す様ではまだまだである。

 次に普段の生活習慣が、はっきり出てくるという事だ。夏休み中、水を飲んでばかりいたので、登山中、水を飲みすぎたし夜更かしばかりしていたので、早く眠りにつくことができず、あまり眠る事が出来なかった。

 最後に、知識が浅いということだ。地図を見ても、現在地を確認する事が出来ないし、登山用語、用具もまだまださっぱり分からない。

 これからは、一日一日の練習を大切にし、山についてもっと勉強し、一人前とはいかなくても、せめて半人前位のアルピニストになろうと思う。

おりひめ第11号より転載

同期のT君の文章です。彼はトレードマークが広島東洋カープそっくりの大学を卒業。もはや某一流企業の部長職を狙える位置にいるんだとか。(タ◎ノちゃん、偉くなっちゃって、山頂でキジ撃ちはダメだよ! たまには山荘で会おうよ。あの頃と変わらず月も星も手にとるようだよ。 蹴られた顔がいまだに疼くゼ・・・)


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おりひめ10 [山荘関連]

ヨシゾエ先生、この年の春に新高へ転勤となり「おりひめ」最後の寄稿となります。

山への慕情

 私が今年の元旦に心の通う人に出した賀状に次のような拙い句を載せた。

 「過ぎし日の ヒマラヤを夢み 今はたゞ 熱き想いを 絵筆にたくして」

これは昨年の八月の下旬に心の故郷なる清水山荘で、ふとしたはずみから肋骨を四本折って一ヶ月余りにわたる病床生活を送り、その後も患部の痛みで登山らしい登山は勿論の事、少しの運動さえも出来ない身体になり、山への思慕の念をひたすらこれまで登ってきた数々の懐かしい山(この句ではヒマラヤとなっているが、それはこれまでの山々の象徴的表現なのである)を描くことによって山への情熱の鉾先をかわし、追憶の中に過ぎし日の己の姿や山を思い出そうとしている、この頃の私である。

 「熱き思いを絵筆にたくして」などと書くと如何にも、すらすらと素晴らしい絵が次から次へと出来上がっていくようだが、まさに悪戦苦闘の連続なのである。池上画伯の研究室で七名の同好の先生方が唸ったり呻いたりの連続なのである。私はこの苦闘の渦巻のような研究室で、これまで漸く三枚の油絵を描きあげた。

 一枚はヒマラヤからの帰国直後より描き続けていた、ティアンボチェのラマ寺院とアマ・ダブラムである。これはヒマラヤの風景の中で、写真や絵画の対象になる最高のものである。これはヒマラヤ写真集の中に必ず見かけるものであるし、私達(ホンマ先生、Y嬢、私)がパンジャブ・ヒマラヤ登山後、ネパールの首都カトマンズにある政府のツーリスト・ビューローでポカラへの航空便の交渉に行き、この風景の三十号位の油絵(勿論ネパール人でなく相当高名な外国人の描いたものであろう)が正面の壁に掛かっているのを見た時に一度是非描いてみようと決心したものである。

 二枚目は秋の巻機山である。我校のホームグランド的な存在である巻機山は、四季を通じて四十回も登っているし、何百回も眺めていて隅々まで知り尽くしているので、さぞ簡単に描けるだろうと思ったが、知り尽くしている山だけに実に描きにくいものである。中央に位置する天狗岩一つとってみても、まさしくその通りなのである。実際に登っているだけに一層始末が悪い。あの峻険にして厳しいスラブやオーバーハングや岩稜を、自分の納得するまで表現する事が如何に困難であるかをイヤと言う程知らされた。

 三枚目は、私達の登ったパンジャブ・ヒマラヤのAC3から眺めたラダキー・マナリー・マッカルベーの六千米級峰への鋭い山稜と遠く雲海の上に浮かぶデオ・テバヤイデラサン峰の雄姿である。これも実際、目にしているだけに、岸壁や氷壁の凄味、迫力を現す色彩に、実に苦労させられた。特に岸壁の色については悩みうなされ夜中に何度目を覚ました事であろうか。人が聞いたらあきれ軽蔑する事であろうが、これも自分で登ってきた山への愛情でありその美しい姿を出来るだけ美しく表現したいと思う。アルピニストの切ない悲願なのである。

 次に描きたいと思っている山は、勿論谷川岳である。この山も巻機山と同じく余りに沢山登り、余りにも心に残る思い出が一杯なのだ。その厳しさや鋭さや深みを表現し得る自信がないのである。十数年前、一ノ倉と南面の幕岩の遠景を一枚ずつ描いた経験はあるが、いずれも納得出来ない代物で終わった。しかし、いずれも当時の卒業生に無理に所望されて手放したが、出来れば取り戻して書き直したいと思っている。私はこれまで谷川岳を描いた沢山の有名無名の人の絵を見て来ている。酷評かもしれないが、たった一枚の絵を除いては、すべて張子の壁であり、貼り絵の境を出ていない愚作である。

谷川岳特有のあの非情なまでの厳しさや、鋭さや、激しさがないのである。実に、描くには難しい山である。私の絶賛したただ一枚の絵は、今は亡き高名な山岳画家である足立源一郎作の南面を谷川温泉から眺望した絵である。私はその絵を十五年前、ヒツゴー沢と思って誤って入った悪絶のオジカ沢を雨と激流に苦しめられ、全身びしょ濡れになりスリップして重傷を負ったO嬢を庇って一晩ビバークの後、二十時間という気の遠くなるようなアルバイトを強行の末奇跡的生還をして、谷川温泉の谷川山荘なる旅館に倒れるように辿り付いた時、玄関の正面の壁にその絵を見つけ、魂が引き込まれる様な思いで無言のまま見入った事を覚えている。

私はその後、その時の感動を新たにすべく一人でその山荘を訪れたが、その絵は源一郎氏の死後、やはり山岳画家である息子さんが訪れ、譲り受け持ち帰ったと聞きがっかりしたが、実に迫力のある素晴らしい絵であった。

 私は、この原稿を書くのに少しでも参考になったり、心の思いでを甦らせてくれればと思って「おりひめ」をめくってみたのであるが、谷川岳に関する私の記事は殆ど載っていなかった。それもその筈なのである。私が谷川の岩場を最も意欲的に果敢に登っていたのは、今から十五年前の昭和三十五年から四十年の期間であったから。その当時の登攀記録は東高OG山岳会誌「ピッコロ」の初期のものに総て掲載されてある。谷川岳の最後の岸壁登攀となった一ノ倉沢三ルンゼの記事の最後の一部を紹介すると、

「・・・その地点からシンセン尾根までは、傾斜六十度位のホールドやスタンスに富んだ快適なスラブをスタカットでどんどん高度を稼ぐ。遂に待望シンセン尾根に着く。極度の緊張感から解放されて、その場に倒れたい誘惑にかられる。その場で写真を四、五枚撮り、苦闘のルートを俯瞰する時、胸がジーンとして話す事も出来ずザイルを解き、ループにして肩に担ぎ、青空とスカイラインを割する国境稜線を目指して急峻な草付きを一気によじ登る。時まさに午後四時、朝七時にテール・リッジに取り付いて、七時間にわたる生死を賭けた登高であった。太陽の光溢れ、春風頬をくすぐる国境稜線で我々二人は声もなく抱きあっていた。感動の嵐が体内を駆け巡り、目が霞み溢れ出んとする嗚咽を歯を喰いしばって耐えるのがやっとであった。何も口に出して話し合う必要はなかった。登攀前に心に描いた演出など全くつまらない俗物の思われた。芸術的なすっきりとした登攀、そんなものはどうでもよかった。唯この山頂に、生きて立っている事だけで充分であった。私の三十七才の生涯で、これ程純粋にして真剣な行為や感激があったであろうか。

また今後二度と有り得るであろうかと思うとき私は、湯檜曽川のシルエットを投げかけ始めた谷川岳に向かい『私の青春の総てを捧げた谷川岳よ!さようなら!!永遠に清く美しくあれ』と心の中で叫んでいた。」

この一ノ倉三ルンゼ登攀を最後の岩壁登攀とする事を心に誓った。

しかし五年後の四十五年のヒマラヤ遠征登山に備えて、トレーニングを兼ねてまた岩場を登るはめになったのである。

 私の長く苦しい岩壁登攀の歴史の中で最高の苦闘と思い出に満ちたものはこの一ノ倉三ルンゼであり、これが真の意味での岩壁登攀の終焉でもあった
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 生涯心の中で生き続ける、この谷川岳の美しさと思い出を一枚の油絵として描きあげる事は、たとえそれが不作にして未完に終わろうとも、老いたアルピニストの悲願であり、慕情なのである。

そうして心の山、谷川岳を描き上げた後は、これまで遍歴した山々を描くべく最小の登山装備をザックに詰め、絵具箱を肩にかけ、キャンパスを腕に抱えて、残雪の山並みを、新緑のブナ林を、黒光りする岸壁を、紅葉する峠の山道を、落ち葉散る渓谷の清流を、そうして吹雪舞う山里を旅心と画心の趣くままに彷徨に歩いてみたいと思っているのが、この頃の私の心境である。


おりひめ第10号より転載

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おりひめ9 [山荘関連]

なんとも無邪気で可愛い一年生です。
夏 山 合 宿


山岳部に入ってまもなく、夏山合宿の日がやってきた。

私達一年生は、二・三年生よりも二日遅れて出発することになっていた。朝、東三条駅まで兄に送ってもらった。

 登山服を着るのは、これで二回目だが、いつ着ても周りの人たちがジロジロ白い眼で見ているような気がして恥ずかしかった。そして、犬まで私の姿を見ると吠え掛かってくるので、とてもいやな気持ちがした。

それから、私の足には鉛の様に重い靴が足を引きずっている。そして初めて担いだキスリングも重くてどっしりしていた。

「ア~ア、こんな重いものを担いで、いったい山に登れるのかな~」とっても不安な気持ちがしていた。

 汽車に乗り、私の席の隣に楽しそうな親子連れの人達がいた。子供の方は母親に甘えっぱなしなので、それを見ると、まるで自分が惨めに思えてきた。そして、これから行く谷川岳が地獄に行く様に思えてきて、この楽しそうな親子連れが羨ましくなってきた。

 汽車から降りて、山に登りはじめた時、降ってくる人がとても羨ましく感じられた。もう体はクタクタ。休憩ごとにキスリングをおろしていると、もう背負うのがいやになるほどだった。

そして巻機山とは違って沢の所ではなかったのでとっても疲れてしまった。ただもう前の人の後について足を一歩一歩踏みしめて登ることで精一杯だった。

 時々、「なぜこんなに苦労して山なんかに登らなければならないのだろう」などと考えながら登っていった。ただ早く先輩方のいる所に着かないかな~。それだけを考えながら登っていった。

そして、とうとう先輩方の声を聞いた時「あっ、もう少しなんだな」と思ってほっとした。

 夕ご飯はてんぷら。あんまりお腹がいっぱいにならなかった。まして家にいる時など、動けないほど食べている私にとって、急に腹が減ると、妙に腹にこたえた。

 夜になって、みんなでテントの中で歌を唄ったりした。私は、テントの中に入るのは初めてだった。別にたいしたほどなかったが、十何人も入るには、少し狭すぎたようだった。

 みんなと唄っているうちに夜も更けて寝る時間になった。二人用シュラフに寝転ぶと、少し背中がゴロゴロして寝心地が悪かった。

「今日もなんとか登ってこられたんだ。よかった。」と思って眠りについた。

おりひめ第9号より転載




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おりひめ8-3 [山荘関連]

あ! いい詩、発見!


無 題

身の程を知らぬわが身の

おろかさを

教えたまえる山々の

憎らしきまでの厳しさを

わが生涯の道として


風さわぎ

雨、地をたたくその中に

一輪咲ける

薄色の名もなき花の心とて

貴きまでのやさしさを

わが生涯の杖として

われ 今 まさに

旅 立 む


おりひめ第8号より転載


貴きまでのやさしさをわが生涯の杖として

・・・泣いて・・・いいですか?大晦日だし・・・


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おりひめ8-2 [山荘関連]

小野塚さんの一言
 この開発については清水・台上・かに沢の三つの部落によって決をとります。
 台上・かに沢の人たちは、私達清水と違って、直接影響がうすいためか、土地を売って金になればそれでいいという考え方の人がいる。
清水部落では今の所、三分の一が(開発に)賛成で、三分の二が反対であり、その三分の一は若い人達で、私達はこれからの若い人達の希望どおりにせざるをえない。
 それに東大のならびに二千人収容のホテルが二つできるにあたって、そこで働かせてもらえるということも、村の人達の気を引いているらしい。
 私の意見としては、自然を破壊されるということは非常にいやである。
 毎年三月頃になるとスキーを楽しんでいる家中の姿も、もう見えなくなるだろう。
夜も錠をかけなければならないでしょうし、やっぱりのんびりと静かに過ごしたいものです。
 最後に一番心配なのは、東高の山荘のことで、やはり責任ある以上心配です。
協力してくだされた方
清水部落
小野塚さん
泉  屋さん
おりひめ第8号より転載
昭和四十年台の中頃すでにスキーリゾート開発の計画があった様です。(世は高度経済成長真っ只中、空前のスキーブーム)
世がバブル景気に浮かれていた昭和六十年頃にもスキー場計画が持ち上がりました。「山荘を拠点にして安くゲレンデスキーができる。部落も潤うし」と内心は計画に賛成だった私ですが。いざ、山荘の運営に関与してみると、計画が白紙になって本当に良かったと思っています。
もし、計画が進んでたら・・・固定資産税とかべらぼうに高くなって山荘の維持は至難の技・・・だったでしょう。
http://www.geocities.jp/mh140923/100za/hyaku/51makih/51makih.htm
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おりひめ8 [山荘関連]

昔の実話

 (略)是誠ニ不思議ナ死ニ様ニ 何他 他ニ評スル者アレ共 信ギハ難斗 死カバネノ引取リ葬式シテ 五人壱穴ニウメ 是ヲ五人組ノ墓ト云ウナリ


 生活の苦しさから、五人で山中の小屋へ熊狩りに行ったそうであるが、なかなか帰らず、心配して村人が見に行くと、五人が五人とも小屋の内外で不思議な死に方をしていた。
村人たちが、五人の遺体を小屋から持ち去るとき、何とも言えない恐ろしい轟きが山におこったのである。
 彼らの墓は五人組の墓と呼ばれ、今に残っている。

おりひめ第8号より転載


ひょっとして・・・
桜坂の駐車場手前にあるこれ・・・でしょうか?
今度行った時、丁重にお参りいたします。
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鯨を喰らう [料理]

魚が弱いで鰯(いわし) 魚が豊かで鱧(はも) 魚が青くて鯖(さば) 秋の刀の魚で秋刀魚(さんま)、魚に日と四と又で鰻(うなぎ)(日に四回しても又したくなるの意?) 魚に京で鯨(くじら)・・・ってことで

今年も、鯨のブロックを知り合いから戴きました

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女子供のお口には合わないようで、私一人大事に食べて一年は楽しめそうな量です。
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早速 刺身でいただきました
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胡麻油に塩コショーでステーキに拵えました
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フライパンが使用中で山用のシェラカップで焼きます
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焼きたてを噛みしめると「ジュワッー」と鯨脂の香味が口中に広がります 小学生の頃 弁当によく持たされた鯨カツの味が脳裏に浮かび おもわず「母ちゃん!」と叫びたくなります
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完食です 「海の番人」を気取るシーナンタラとかいう呑気な金持ち集団も一度喰ってみろ(健康にも良いし)って位の美味さです!

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おりひめ7-3 [山荘関連]

イヨッ!・・・まってました!会の良識 われらのマダム! E先輩のピカピカ一年生の抒情詩?です。


空と山とわたし


私は今 緑の草の上に 寝ころんでいる

空が とても青く まぶしい


すぐそこに 山の稜線がくっきりと

描かれている


こんな大きな山と それより

もっと大きな空に かこまれている私の

なんとちっちゃなこと


でも私は 満足感にひたっている

こんな大きな山に

私は重い荷物をかついで登ってきた

こんなに小さな私が・・・・・・


強い自信感がわいてくる

もう 少しくらいの苦しさでは

泣かないぞ


すんだ空気を 思い切り 吸って

大きな声で歌いたい 山の歌を

(鳥海山 千畳ケ原より)

おりひめ第7号より転載



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おりひめ7-2 [山荘関連]

スキー部顧問のO先生がステキな文章を寄稿しています


或るイメージ


 僕は、音楽が好きだ。文学が好きだ。スポーツが好きだ。そして、自然が、特に山が好きだ。専門的知識など何もないし、数多く登ってもいないけれども、山が大好きである。僕は時々、山について或るイメージを夢見る。

 真夜中、誰もいない白銀の冬山を、僕はひとり、月の光を背に受けてシュプールを描く。サイレント映画のスローモーションの場面のように。処女雪は、柔らかく僕をつつみ、舞い上がる粉雪の中で、僕は完全に重量感を失う。二本のスキーは、生き物のように雪の中をぬめる。不意に現れる目の前のギャップを、ふわっと僕は飛び越える。僕の身体は空中に浮かび、雪煙の中で、カミソリのようにエッジが光る。スキーが再び雪面に着く瞬間に、僕の姿は形而上の世界に昇華して、雪の精と化した僕は、白い恋人の中に残された一本のシュプールを眺めている・・・・・・

 或る日、白骨化した遭難死体が、虚ろな眼で沢蟹の遊ぶのを眺めていた。たえずぶつぶつ独りごとを言っていた。

 「私が死んだのは三年前。あの岩から落ちたのだ。私には両親とひとりの恋人がいた。三人とも、全財産を投げうって私を捜索してくれた。でも、もう、諦めたようだ。無理もない。読経の声も聞かずに、私は死んだ。雪が消えると、毎年自然が花を手向けてくれた。私は淋しくなんかない。ほら、両足と右の腕がないだろう。二年前の雪崩が、右脚を持っていった。去年の冬は左脚を、今年が右腕をもぎ取っていった。けれど、このエンゲージリングだけは、今もここに残っているよ。」

 山はいいものだ。僕自身、1年中、山とは縁が切れない。春は山菜採り、夏は登山、秋は紅葉狩り、冬はスキー。息子も僕に似たのか、特に夏休みなどは、毎日毎日飽きもせずに近所の山で一日中虫を追っかけている。

 山岳部の皆さん、君たちは良い部を選んだと思う。登山は苦しく、地味なスポーツだ。決して華やかではない。自分勝手な行動は時に死を招く。

けれども、そうであるが故に、他のスポーツと違った真剣さと良さがある。心の触れあい、忍耐、冷静な判断力、連帯感、責任感、一糸乱れぬ団体行動。奉仕。
 
君たちは、山岳部活動を通じてこれらのことを実感として学ぶことが出来たはずだ。

 山岳部の合宿には二度参加させてもらった。春の巻機合宿と、夏の鳥海登山であった。学年別の分担による入念な事前準備、山荘や山での男子に劣らない活躍ぶりとガンバリ。それぞれに強く印象づけられた。本当にお世話になりました。良い顧問に恵まれ、君たちは幸せだと思う。三年生は三年間よく頑張った。見事な活躍ぶり。一,二年生も、途中で挫けることなく、最後まで続けてほしいと思う。

三年間の経験は、必ずや君たちの人生にプラスすることを確信しています。

おりひめ第7号より転載

 O先生、リタイア後は千葉の房総に居を構えるかたわら、最後の赴任地、松之山の離農農家を借りて晴耕雨読、悠々自適の生活を楽しんでおられます。

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あ!オカヤマ先生だ!・・・と思ったら山学同志会の小西政継さんでした


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おりひめ7 [山荘関連]

R先生「おりひめ初登場です」


山  ―雑 題―


 名前は知っていても、まだ本物にお目にかからぬ花―心の中にイメージで花を見事に咲かせたものの一つにエーデルワイス(ウスユキソウの類)がある。知床のハマナスもそうであるように。


 ものの本によればウスユキソウの類は北半球のユーラシアに多くあって、およそ三十種ほど、南米にも少数あるという。ところが高山植物に入れられるものはごく小数で、ヨーロッパではエーデルワイスが唯一の一種。アルプスの山々に夏、可憐な花を咲かせる。そのためか「アルプスの星」などとも呼ばれ、ヨーロッパ・アルプスでは名花中の名花として珍重され、岳人の憧れの花と云われている。


 日本では中部から東北北海道の高山で大抵この同族がみられ、幾種類かのものが知られている。


 ヨーロッパアルプスの厳しい冬の氷と短い夏の単純な気候に較べて、我が国は各地の気温、降雪降水の微妙な違いから各地のこの同族 ―ウスユキソウ― は花弁に葉茎に独自の姿を形づくる。岩礎地に咲くが山地によって分布も限られ、地域の特産になっているものが多い。


 各地にあるウスユキソウの類でエーデルワイスに最も良く似ているのがハヤチネウスユキソウ。”みちのく”岩手、北上山地の最高峰早池峰山地に咲く。上信越国境の岩山にはホソバヒナウスユキソウ。谷川の岩陰でも夏に美しい姿を見ることがある。


  ヒナウスユキソウ― 一名ミヤマウスユキソウとも呼ばれるが、夏期行事で我々が月山に行く頃、山頂付近で歓迎してくれる、草丈は高くなく、冬の豪雪に耐えるが如き、横広がりの”さま”はいじらしい。頂上小屋より湯殿山へ向う北斜面は見事な群落を見せる


 ヒメウスユキソウ。中央アルプス― 木曽駒に分布、そのためコマウスユキソウの名でも知られ、宝剣の岩場から空木岳への尾根道に二つ三つあるいは七つ八つと小さな群れをつくる



木曾駒ケ岳というより宝剣の千丈敷カールまで山麓よりロープがかかり下駄やハイヒールでも三千メートルの山に立てるため、年々荒らされて、木曽駒頂上ではもう見られない。ここより一歩、空木までの八時間行程の尾根に踏み出すと、岩礎の間に咲いている。


 岩に乗せた靴の下に二輪、朝の陽に露を光らせていた。思いの外、花は小さい。濃緑の細い葉々。すうっと伸びた茎の上に灰白色の花― 四、五枚の花弁を星の様に広げ、細かい綿毛がまるでフェルトだ。

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 その名の通り、実に美しい。恋焦がれたメッチェン(編者注:独語 若い女性)に出会ったかの如く、夢中でシャッターをきる。・・・・・・


 まだ見ぬ”彼女”には、 エゾユキソウ、 最北の島に住む レブンウスユキソウ、 それに シロウマウスユキソウ などがある。


おりひめ第7号より転載


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先生からの年賀状です。クリックすると拡大表示します。


実は、先生7月に内臓の手術をされました。10月に私、同期の代表として、旧巻町のご自宅にお見舞いに伺いました。ちょっと痩せましたが、殊の外お元気そうで安心しました。7月の豪雨で沢が涸れた清水部落の様子をしきりに気にかけておられました。



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おりひめ6 [山荘関連]

山 へ

おれは

まぶしいおもいで

追ってくる山をみた

おれが背負っている重量

それは暮らしそのものだが

ふみしめる足元で

こたえてくれる大地

それが心臓に鼓動を伝えるから

おれは

この国の

この山がたまらなくすきだ


がんじがらめのような日々

体ごと何かにぶつかりたくて

くやしさのなか

みつめる祖国のつぎはぎだらけにけがされ

それでもここまですすんでくると

新しい年のように

鮮烈なその頂きがみえる

おれは


めざめるものだけにやってくる日常の

その苛酷さのように

さあ挑んでこい!

そう呼びかける山があり

つめたい季節にもえる心があるから

おれは

この山と

この山の仲間がたまらなくすきだ


さあ行こうぜ!

それを呼びかわすとき

やってくるあついおもい

一途の決意

すると山は

未来を指さすように

鋭角の頂点を

鋭く中空に突きたてるのだ

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おりひめ5 [山荘関連]

山に栄光あれ!

 山に許しを請う!私の意気地なさを

 私は途中で山をおりようとした。気にしなくてもいいことにくよくよして、いつも自分を見失い、皆の先頭に立つことが重荷になって。私は途中で、いや、もう一歩という所まで来て山をおりようとしたのだ。

そのため他人に迷惑をかけるという私の山の警句を破る破目になった。一時の感情のために、大切な頂上での感激を忘れるところだった。

 山に許しを請う!身勝手な私を

 東高に入学してその月にもう山岳部に入部した私。何の大それた気持ちもなく、何の考えも持っていなかった時期。無邪気なあの頃は最高に素晴らしかった。

一年の年の夏期合宿での辛さ。それに勝る喜び。くたくたに疲れはて、必死になっている自分にわくわくした気持ちを覚え。

怠けている上級生に腹まで立てたあの頃。

現在、自分の言動に対しどう思っているか。文章に書くまでもなく、いや、表現する以上に自分を責めている。

 山に許しを請う!友への裏切りを

 私は山の友を裏切った。友の信頼を裏切った私は何も言うことが出来ない。

 山に許しを請う!三年間の失敗を

 卒業は終わりではない。山から離れても山を忘れることはできない。もう一度、いや、何度でも行きたい心の山々。飯豊連峰でみた夕焼け、秋の巻機、あの絵の様な風景は今も残っている。何年か先になるかも知れないし、ことしすぐそのチャンスはやってくるかもしれないが、私の希望は広がってゆく。

昔を懐かしむのは老いた証拠だといわれるが、何もせず三年間過ごしたものに比べれば、私達はたとえ失敗ばかりだったとはいえ少しでも心に残る学生生活を送ってきたことを信じている。

 山に栄光あれ!!

おりひめ第5号より転載


なんとも情熱にあふれたM先輩の文章です。そういえば、M先輩の愛車も情熱の「真っ赤」なワーゲンでしたね。山荘の地鎮祭のときには祭司(仏式)を務めていただきました。



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おりひめ4 [山荘関連]

すばらしき人間像

 高校生活を通して私の心に一番印象深く残った人は、髭のおじさんこと「高波 吾策」さんである。山を通じて人間味豊かな人物に接する事が出来た私は、幸福者である。

 髭のおじさんは、体から溢れ出る若さと、真理を追求しているようなあの黒い澄んだ瞳は歳を感じさせない。

彼は山の真の美しさ、恐ろしさを知り、山に登り、我子のように山を愛し、そこから得た人生観に何か力強い感動を受けさせられた。

 吾策さんの話の中で、「山が好きだから登る、ただそれだけでは遊びと同じだ。山に登り自分をそこに置いて考え、山で得た経験を通して将来の手助けにしてこそ登山だ。」という話をしてくださった。

 人は誰でも自分を山に置いて見る事が出来るであろう。しかしそこに他人の心をも写し出す事は出来るであろうか。

 私は吾策さんと話をしてみて「彼こそ他人の心の内までも写し出し勇気を与えてくれる事の出来る人である」と思った。これも真の登山者であるからだろう。

彼との話は今の私の心中に、なにか勇気を与えてくれるような気がした。

 いつかは吾策さんまでとはいかないだろうが、その何分一かは他人の心を写す事が出来るような人生を築いてゆきたいと思う

おりひめ第4号より転載


あの、「吾策新道」の開拓者に生前お会いした事があるんですか?うらやましいです!巻機だと雲天の「とうちゃんとかぁちゃん」が「その」風情を残しておられる様です。(個人の感想です)

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おりひめ3 [山荘関連]

インターハイ県予選に参加して

 山岳部に入部して初めての山行が粟ケ岳においてであった。先生方や先輩のご指導のもとで素晴らしい山行を経験する事が出来た。

 そしてはや1年 また粟ケ岳に登るチャンスが生まれた。だが、それはインターハイであった。私の心はこんな方向に走った。(このインターハイであの素晴らしく雄大で、神秘的な感じを与えてくれるだろうか・・・)

 やがてその日がやって来た。第一日目は加茂農林高校において開会式、その後で競技上の注意などチョッピリ煩わし話があり。粟ケ岳観光ロッジ前で幕営、その付近でペーパテスト 、第一日目からとあって少し調子が狂うがかえってその方が良いだろう。テストと名のつくものは早く終えた方が・・・。夜、キャンプファイヤーが、上手な司会者のもとで行われた。各校自慢の喉を競った。

 二日目の朝はあまり気持ちの良いものではなかった。いよいよ出発、A隊から少し時間をおいて出発する。私達D隊は いちばん最後であった。やはり尾根道は苦しい、重くて真新しいキスリングは私のか弱い肩を何とも思わなく、グイグイと食い込んでくる。太陽までが体内の水分を少しでも多く出してやろうと思っているらしい。この尾根道は長いな―と思っているうちに、やがて鎖場、そして赤い小屋。赤いヤツオツツジなどは花盛りであった。天気が良かったので辺りの風景もなかなかのものであった。そして全員頂上に到着したのは十二時頃であった。

頂上付近の雪渓上で幕営、その後頂上で装備の点検など色々と煩わしい事が行われた。

夕食のオカズは確かワカメの三杯酢、魚のみりん焼と? みんなおいしく戴いた。

夜はやはり寒かったが若者は火の回りに集まり二回目のキャンプファイヤーを行った。山の歌声はいつまでも夜空に鳴り響いた。その後三条高校の天幕に先生と共にお邪魔する。色々と勉強になる点が多かった。そしてしみじみと感じた「今度生まれて来る時は男に生まれて来たい」と。

 朝食を済ました後、雪渓上において技術講習が行われた。無事終了し、加茂市役所前にて閉会式。

 今、私は「山において、大会は反対である」と言いたい。山を自分なりに登って、何かを得れればそれで良いと思う。自分自身に対して、少しでも、ドコカデプラスの面があればそれで良いと思う。近頃では登山ブームに乗って無謀な登山が多く、遭難々々と載る新聞の記事に目を見張る。本当に山を愛する者には遭難だけはして欲しくない。

 やはり年に一度はこのような(技術講習の)大会は必要なのであろうか?

私はこの大会の様に家に帰ってきてから気持ちが晴れない山行は好まない。

おりひめ第3号より転載


う~ん、やはり競技登山に対して、現役学生には相当な不満や疑問が当時からあった様です。


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おりひめ2 [山荘関連]

山でのある話

チラチラ燃える ストーブを見つめながら私達は話しました

「私 冬が好きです 人をあるところに集めます 同じものを求めて集まってきます 人が集まれば話さずにいられません その話を聴くのがとっても好きなんです ここにも冬があります だから私は・・・」


「私は無言を求めに来ました 何もかも忘れたいからです」


「私は自然に会いに来ました 太陽 星 雲 花 人間がいくら頑張ってもだせっこない美しさを持っているんですもの」


「私は 生きたい ということを思い出すために ここに来ました」


「あなたは?」


「・・・・・・・・・・」


そろそろランプも眠たそうになりました


外では 風と玄関が喧嘩腰 になってきたようです 


・・・・・・・・・・・・・

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旧山荘平面図(クリックすると別画面で拡大します)
 
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おりひめ [山荘関連]

7月の上旬頃、モトヤマ元校長先生から再度、貴重なものをいただきました・・・

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ガリ版刷りの「ピッコロ」創刊号
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ビジュアル版「日本百名山」「花の百名山」

そして・・・

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タコ釣り [旅日記]

出雲崎の海岸にて初めてのタコ釣りに挑戦しました。

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仕掛けはこれです!冗談みたいな仕掛けです。半信半疑でタコの居そうな岩礁に竿を降ろします。

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竿を振って誘っても、仕掛けを替えてもタコは掛かりません。

イヤになってきてもう帰ろうかと思った14時30分頃

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突然、岩の隙間からニョロッとタコの足が伸びてきてズルッと仕掛けに抱きついてきました!

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釣果:F君が5匹の私が一匹。「獲って殺生、喰って成仏」とか云います。その場で足は刺身、頭は茹でて(脳ミソがふわふわして絶品!)、わさび醤油で美味しく「成仏」していただきました。南無ナム・・・。


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弥彦菊祭り [旅日記]

約20年振りに弥彦の菊祭り見物に出かけました。

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日曜日の夕方、しとしと雨、予想どおり人は少なかったけれど・・・なんか寂しいような、気分が盛りあがりません。撮った写真も暗くて冴えないし(文字どおり華がない?)・・・やはり菊は抜けるような秋空の下、大勢の観光客とともに観賞するのがよろしいようで。

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モーメント [雑事]

’11年11月11日11時11分・・・1の10並び

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「それがどうした?」って云われると困るけど・・・撮りました

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そういえば・・・

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このカレンダー時計、西暦2000年にいただいた物ですが、11年間一回も電池を入替えた記憶がありません!


時を前後して・・・
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マイハニー号もメデタク30000Kmの大台に乗りました。
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「だから~、それがどうしたの?」っていわれても、どうもしないんですけど・・・。

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浪花2人旅 [旅日記]

去年、北海道で知り合った「大阪のMさん」(http://taku1toshi.blog.so-net.ne.jp/2010-08-06)のお誘いに甘えて

「韋駄天のFくん」(http://taku1toshi.blog.so-net.ne.jp/2010-10-11)と一緒に9月の3連休に大阪に遊びに行ってきました。名づけて「浪花たこ焼きツァー」

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大阪への足は22時48分発の高速バス。リクライニングシートに身を沈めて熟睡、翌朝、目が覚めたらもう新大阪駅北口着です。


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飲用沢が復旧しました! [山荘関連]

昨日(平成23年9月18日)山荘に宿泊したK氏よりうれしい連絡がありました。
清水部落の陳情により、涸れた沢に重機(恐らく水陸両用のキャタピラ付きの戦車みたいなやつ?)が出動し、崩落して沢の水を堰き止めている巨岩を除去、ようやく沢が生き返ったそうです。
訂正:本日(9月22日)、上田屋さんに確認しましたら「呑湯沢からの取水水路を部落総出で人力で復旧した」ということでした。「ブルーシート(?)使って大分苦労した」とのこと「今後、よっぽどの事がない限り大丈夫!」との事でした。
まだ、水は濁っていて飲用には適しませんが、トイレやお風呂はOK!だそうです。
ついでに、大津屋ガスさんに連絡してプロパンガスも補充してもらったそうです。
以上、取り急ぎご連絡まで。

補足:豪雨により沢の巨岩が浮いて不安定な状態です。捲き道も流されていて沢は非常に危険です!よって沢登りは禁止です!!
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北海道 JULY 2011 [旅日記]

今年も北海道にツーリングに行ってきました。


走行ルートはこんな感じ


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【1日目】→新潟港→新日本海フェリー(泊)

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23時30分出航、秋田経由苫小牧東港行き「ライラック号」

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2等客室。明日からの楽しい旅に思いを馳せながら早々に眠る。

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飲用沢が涸れた [山荘関連]

7月29・30日の新潟・福島豪雨による水害で威守松の飲用沢が涸れてしまいました。

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水害の爪痕です。巨木がなぎ倒され、豪雨から3週間経った今も沢は泥で濁っています。
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飲用沢です。完全に涸れて乾燥しています。この沢は湧き沢で、冬でも涸れる事なく農業用水や融雪用水として大切にされてきました。 増水による濁流で巨岩が崩落、源泉が塞がれたか経路が変わったのが原因(上田屋ご主人)だそうです。
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一枡です。びっしりと汚泥が詰まっています。
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二枡です、汚水にボウフラが湧いて見る影もありません。もし配管に汚泥が詰まってたら・・・貫通まで大変な苦労をさせられそうな予感。清水部落でも水が止まり頭を抱えています。復旧には今年いっぱいかかるとか泥水が完全に澄むまで2年位とか?情報は錯綜しています。 幸い米子沢は被害がなく、桜坂の水道栓は使用可能です。復旧までは山荘にある20Lのポリタン2個で貰い水をして調理他する事になります。
しかし冷静に考えると、景観を壊すの、自然破壊だのと、なにかと評判の芳しくない砂防提ですが、今回ばかりは水害の被害を最小限にくい止めた立役者・・・と思われます。
   
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意気消沈の帰路、ふと思いたって旧堀ノ内町出身の歌人「宮 柊二」先生の墓標を詣でました。

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光モノ讃歌!! [料理]

毎日愛読しているkurakichiさんのブログ http://joun.blog.so-net.ne.jp/2011-05-14にコハダの酢〆の記事があり,それを参考にして挑戦してみました。
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出刃包丁はなく捌き方も見様見真似です
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適当にすし飯こしらえて、箸で成型して出来上がり。・・・「マイウー!」です

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「ピッコロ」5 [山荘関連]

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終刊号です

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巻頭言です


惜  別

吉副 道夫

キビタキ岳友会の二代目会長であった鈴○ 喜○さんが昨年の暮れも押し迫った師走のある日、愛息二人をバイクの尻と自分の背にくくりつけて東高に訪ねて来られ
 
「永い歴史と思い出多い楽しい山岳会であるが、この頃は会員の数も少なく、会合の参加率も良くなく、このままでは先細る結果となり昔の栄光と伝統の重責に耐えることが出来ないから、いっそこの辺で発展的解散をして、キビタキ岳友会の会員としてではなく個人として、また愛好者グループとして自由に気軽に山行するのが良いのではないか」と云う相談を受けました。

我々顧問も日頃のご無沙汰を苦にしながらも同じような意見を持っていたので賛成した次第ですが、回想してみると実に長い歴史と山行と思い出のある山岳会でした。

一九六三年と云うと十一年前になりますが、その年の三月一日の卒業式の後で同好の志が学校図書館でキビタキ岳友会の発会式を開いて記念撮影(その時の写真は私のアルバムに大切に貼ってあります)をし、会則を作ったり、今後の山行の夢などを熱っぽく語り合ってからもう十一年経ってしまったんですね。

その間数多くの山行を通して、色々の成功や失敗・珍談や奇行がありましたね。

しかし実に楽しい愉快な山の会であり仲間でしたね。一口に十一年と云うけれども長い歳月ですよね。

紅顔の美青年で緑なす黒髪をしていた私は頭の髪は薄くなり(ハゲタのではありませんよ)、本間先生はゴマ塩頭になり共に厚顔の年代となりました。

しかし諸君もまた十八・九才の純情なる美少女が三十才と云う厚かましいオバチャマになったのですから。

ザックに鈴などつけて黄色い声ではしゃぎながら野山を散策した乙女は、今は巷にあって家族や商売の采配を振り、夫を叱咤激励し、子供のお産(中には、はや三人もね)や養育に日夜精励していると聞くと、まことに頼もしい極みであり、キビタキ精神の健在を確信いたします。

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